聲の形を見た

気付いたら大晦日になってしまったので取り急ぎupする。後々編集するかも。
そろそろ公開終了しそうという事で今月の頭に見てきた。
公開当初、「これは差別だ」「感動ポルノだ」「ヒロインが人形のようで気持ち悪い」というような言われようをしていた覚えがある。こういった視聴者の反応を含め、思った事をつらつら書いていく。一応オチは伏せてるけど読めばわかるかも。

 

1. これは感動ポルノなのか

感動ポルノとは、狭義に障害者を主役に前向きに何かに取り組むさまを鑑賞する事を指すと思う。

感動ポルノ - Wikipedia

本作はあてはまるのだろうか。
これが感動ポルノだとしたら、もっと西宮さんが心底前向きな性格で己の夢を叶えるなどの必要がある。感動ポルノというには気持ちよくなりきれない。妙な引っかかりが残るし出来が悪い。でも、感動させるための装置をもった作品であることは確かだ。

そもそも、西宮さんの持つ障害は本作で描かれるモチーフの1つに過ぎない。彼女の持つ障害はコミュニケーションの困難さを浮き彫りにする装置であり、障害の有様がもっとも描きたい事ではないはずだ。どちらかというと大筋は青少年の青春ドラマ映画である。たとえば「包帯クラブ」的な。見ていないから方向性が合ってるかは定かでないけど。
というか、原作出版社の意識しているであろう読者層は極一般的な五体満足のヘテロ性愛のマジョリティに属する青少年達と考えられる。むしろ青少年達の漫画ヒロイン枠に出版的にも読者的にも各包囲に「面倒くさい女の子」が抜擢される作品の注目度を思うと評価できると思う。
例えば「四月は君の嘘」は、ヒロインが病気でも輝きをもって生きているという話の構造としては正しく感動ポルノだけど、あれを気持ち悪いという声は聞かなかった。私も良い話だと思う。

問題は、感動ポルノそのものではなく、感動ポルノ意外での障害者の存在感の無さではないだろうか。
(……障害映画の定義ってなんだ?と思い始めたのでこの辺で次に移ります)

 

2. この映画の気持ち悪さ、妙な後味、モヤモヤ感、色々な納得できない点、胸くその悪さはなんなのか

誰も善人がいない上に、答えが出ていない。登場人物みんなして面倒くさいキャラクターであるためスッキリとした感情移入がしづらい。これが、多くの人の心に何らかの引き攣れや軋みを起こす仕組みになっていると思う。

 

・小学生の持つ凶悪さと純粋さ

よく出ているなぁと思う。実際に私が小学生のときは、不思議ちゃんが避けられてたり、新任の女性教師に対する嫌がらせ、女の子同士での不仲によるトラブル、癖のある教師についての悪質なウワサ、などよくよく考えれば色々あったように思う。

 

・西宮さんは人形か?

西宮さんは小学生の時点で自己評価が極端に低い人で、ゆずるが引き籠もりである事や両親が離婚した事などに始まり、良くない事の全てが己のせいであるという思考を持っている。(これには環境的要因が大きく絡むと考えられる)
そのため彼女は、いい子の聖人で居る事を己のアイデンティティにして、処世術としてヘラヘラニコニコしてきたって事が見てると分かる。が、結果的にそれに苦しめられて満身創痍になる。
DVやモラハラ攻撃にあい続けた結果、開花するメンヘラちゃんと同じように見える。(ぱぷりこ氏の妖怪ウォッチが頭をよぎった。分からない人はggr)そういう意味では確かに、多くの人にとって関わりたくない気持ち悪い人物像なのかもしれない。
西宮さんの意識が基本は内向きであるという点でも、感動ポルノの方向性とは離れていると言えるだろう。

 

・ショーヤと西宮さんの関係

西宮さんは当初から虐められていたわけではない。大人の非協力的な態度や無理解の中で同級生に疎まれるようになってしまった。彼女の中では、諸悪の根源に自分がいるため、いじめを報いとして受け取っていたのではないだろうか。加えて、自分に突っかかって取っ組み合いをするような相手になるショーヤが新鮮だったんじゃないだろうか。高校生になった西宮さんは、自分のせいでいじめられてしまったのに、手話を覚えて会いにきてくれたと捉えたのだろう。しかし、恋愛関係になってしまうのは腑に落ちないとは思う。が、西宮さんがエヴァのアスカみたいなツンデレだったら、“許されない事への甘え”が生まれてしまうので、やはり許す構造が必要だった。

 

3. 人は他者を理解し許すべきなのか

映画では、(私の読み方が間違ってなければ)互いの理解を深め許しあおうという方向に話が落ち着いたが、実際問題、誰かを理解するってかなり難しい。
好いている人達でさえ、コミュニケーションを重ねて得たその人の欠片から人物像をイメージするけどいつまでたっても完成しない。相手に対して負の感情を持っていればいる程、このピースを集める難易度が上がる。
ついでにいえば、己を理解する事さえままならない。

最初はどのメインキャラも立ち位置や捉え方は違うけど自分から逃げている。
ショーヤは西宮さんを通して集まったみんなと遊園地に行くけど、その人なりの誠意が見えるならまだしも、自分の事をどうでもよく扱う人の隣にいたくなくない??そんな人と遊んで楽しくなくない???
私なら上っ面を滑るような会話しかしてこなかった人や理不尽な事をされた人に数年越しで馴れ馴れしくされたら「何じゃコイツ」とまず思うし、関わりたくない。信頼を裏切られたときの気持ちって早々忘れるものでないと思う。

あと釈の関係上しかたないけど、映画内での川井さんや真柴の役回しがイマイチだったせいで彼らが何を考えてるのかがイマイチ見えなかったことが残念。

 

・理解できない事は決してコミュニケーションの放棄ではない

嫌いな相手を理解する必要はないけど、自分で関わらないようにして摩擦を減らすようにすべき。わざわざぶつかりにいくのってはた迷惑。牛か猪なのか?
ことばのキャッチボールなんて言うけど、ボールが苦手な人に対して最適なやり方も考えず投げつけるのっておかしよね。
相手と向き合う事が必ずしもベストじゃない事は多々あるし、コミュニティは1つじゃないし、所変われば人変わるだし、全ての人とうまくいくわけがないし、誰しも良いところ悪いところがある。

映画のような曖昧でぼんやりとした人付き合いの仕方がきっと一般的何だろうけど、こういう関係を持ちたいとは思わない。納得のいく人付き合いを私はしたい。コミュニティは1つじゃないし、所変われば人変わるだし、全ての人とうまくいくわけがないし、誰しも良いところ悪いところがある。

私は、許しがたい事を無理に許す必要はないと考えている。許しても何かのときにまた蒸し返す事になる。許せなかった/許されなかったとしても、むやみに落ち込んだり恨む必要はない。“許されなかった事”以外は許されているかもしれない。その一点についての話で、他の面については語られない以上未確定だ。
許す事は愛する事や理解する事ではないし、だから許せないけど愛することも成り立つ。
でも、許されない事に甘えて自分は〇〇だからと悲観に酔うのは1人のときだけにした方が良い。それこそ人が寄り付かなくなる。
全てを許してくれるのは菩薩だけだけど、許さない選択も許されるはずだ。
この映画は答えを出すわけではなくこちらに投げかけてくる。

最後に、エンディングのaikoが良かった。

 

 

2017/01/01 見出しなどの設定がめちゃくちゃだったので修正